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大阪2児放置死事件を基に制作された前作『子宮に沈める』(13年)が、児童虐待のない社会を目指す「オレンジリボン運動」の推薦映画となり、厚生労働省の定める「児童虐待防止推進月間」である11月に劇場公開される緒方貴臣監督。4作目で9月15日(土)からテアトル新宿にて上映がスタートする本作品『飢えたライオン』は、昨年の第30回東京国際映画祭日本映画スプラッシュ部門に選出され、その後も海外映画祭からの上映オファーが殺到し、プチョン国際ファンタスティック映画祭では最優秀アジア映画賞を受賞しました。今回は公開を記念して緒方貴臣監督にたっぷりとお話を伺いました。

―最新作の『飢えたライオン』も前作『子宮に沈める』も、親が片親だったり、別れたりします。両親の関係は、子供に対してどのような影響を及ぼすのでしょうか?
親は重要なものと思っていて、特にお母さんについてはずっと僕の映画の中心になっているんです。一人親だからといって家族として機能していないとは思っていないし、今、そういう家庭も少なくないです。その中で僕が言いたいのは、ああいう事件が起きた時に、‟まずお母さんが責められる”ということです。離婚したとしても、子供にとっての親は変わらなくて、お父さんはお父さん、お母さんはお母さんなのに、娘や息子が何か事件に巻き込まれたり自殺したりとかいった時に、まず責められるのはお母さん。で、「何でだろう?」と思って調べてみると、‟育児はお母さんの責任にある”という社会の決めつけがすごくあって、それで『子宮に沈める』を撮りました。
(『子宮に沈める』では、)子供達が二人亡くなりました。お母さんは風俗で働いていました。「お母さんなのに風俗で働いて」とか「風俗で働いているからそういうお母さんになるんだ」とかいろいろ言われ方があったのですが、一方で誰も離婚したお父さんに対しては言及していない。
「お父さんは何しているんだろう?」と僕はまず思いますし、養育費も払ってなかったり、色々そういう問題があって、そのしわ寄せがお母さんにきて、結局色々寂しさもある、お金に苦労していたというのもあったりして、ああいう風になって。最終的に、弱者というか社会的に弱い者にしわ寄せがいくわけじゃないですか、それが子供だったと僕は考えていて。
今回でも、もちろん遠因だとは思いますけど、親というのは何らかしらのものはあるとは思います。ただ、お母さんが悪いとは思っていない。お母さんはお母さんで一生懸命に働いていたわけだから。じゃあその時に「お父さんは?」と僕は思ってしまうわけですし、まず想像して欲しいなと思う点です。

―瞳は衝動的に自殺したようにも見受けられます。思春期の子供達であればこその‟もろさ”のようなものを表現されたのでしょうか?
まず、若年層の自殺というのを僕の映画だけで簡単に表現しようとは思っていないです。そこには色々な理由があると思うから、僕はこうであるとは言えないのですけれど、色々な理由がある中の一つとして‟衝動的なもの”が絶対あるとは思います。
ただ、彼女(瞳)がイジメとか、学校で起きたこと、家族からも分かってもらえてないといった背景が何もない上で、あのシチュエーションでは自殺していないと思います。
僕は自殺って一つの理由だけじゃないと思っています。やっぱり若い時ってコミュニティが少ないじゃないですか。基本は家で家族か、学校での友達か、習い事や部活をやっていたらそのコミュニティがあったりするとは思うんですけど、基本的にはそれぐらいじゃないですか。
瞳の場合はバスケットボール部をやめています。だから、今は部活仲間がいないとして、学校でみんながあまり自分を信用してくれてない、離れていった、家でも駄目、で彼氏も、となったら、誰も自分を信用してくれていないという状況で、そこの目の前にいけば、死ぬというよりは、今の状況から解放されるための選択肢として彼女は選んだと僕は思っていて、、、それで衝動的に。
だから、あえて軽く描いたんですよ。思いつめて思いつめて、すごい死のうと思って死ぬんではなくて、ああいう風に簡単に人って死んじゃう。けど、サインと言うか兆候は絶対あると思っていて、でもそれって中々気付きにくいじゃないですか。それに、ほんとに本人が死のうと思っていたら、それは隠しますから。

そこを僕らは見ていかないといけないし。瞳が自殺する前のシーンで、コンビニでコピーを取っている人の向こう側を瞳が通って行く、あと、車の中で運転席から(瞳を)見ている、それからトイレのシーンとか、誰かの世界の中に彼女が歩いて行くというのをわざとずっと並べていったんですね。
通常(の映画)なら彼女だけを映すわけじゃないですか。他の人の世界・フレームの中に彼女が入っているみたいな感じで描いたのは、実は駅にいた時にその後自殺した人が自分の視界に入っていたかもしれないわけですよね(特に東京とかは)、そういう風に思って欲しいなと思ったからです。
彼女がブラックアウトした後に、「人身かよ」という言葉が入っていますけど、自分のスケジュールが乱れるほうの比率が高くなっている時ってないですか?
そういうのって僕もあるんですよ。ほんとに疲れている時に、早く帰りたいのに、人身事故で1時間も2時間も待つってあるじゃないですか?特に今暑いのでホームで待つって大変なんですけど、それぐらい自殺は僕らの身近でほんとに多いんです。なのに、そこについて個人の問題って捉えていて、僕は自殺って社会問題だと思っているんですよ。
日本ってなんか、その人本人の個人的な問題だけで済ませようと思っているんだけど、瞳だって元々は個人の問題から始まったものかもしれないけど、結果的には社会の問題につながっていると僕は思っているので、あんな風にシークエンスにしたというか。
それぐらい自殺って、なんで?って外側から見たら思っちゃうぐらい簡単に起きてしまうんですよ。何でそんなことで死んじゃうの?って思っちゃうじゃないですか。
例えば、イジメを苦にした自殺について‟人生長いから三年間ぐらい我慢すればいいのでは?”といった発言が話題になりましたが、小さい時の3年間って長いですよ。そこで死にたい思いを我慢しろって、自分が経験してないと大人は簡単に言ってしまうんです。ほんとに地獄だから。死にたいよりも逃げたい、解放されたいから自殺すると僕は思うんですよ。
(瞳にとっては)親とか家族だけが最後に信じてくれるところなのに、そこもなくなればもう誰がいるの?唯一信じてくれていたのが先輩の西島であり、でも彼には下心があった。どこにも助けはない状況で。

―見守る目線があることで自殺を防げたりすることもあると思います。監督にとって愛情とはどの様に表現できるものなのでしょうか?
見守ることは大事だと思いますが、でも今そういう社会じゃないというか、みんな忙しいじゃないですか。もちろん理想としては見守ることは大事だと思いますし、色々、隣近所の関係性とかがあって必要だとは思うんですけど、中々難しいですよね?
僕はあの親に愛情がなかったとは思わないですし、(親として)すごく心配もしたと思います。でも、やっぱり子供は子供で、‟親に心配かけたくない”という気持ちが働くわけじゃないですか。だから、特に自分のことを心配するってわかっているんだったら、なおさら隠すと思うんです。特に、性的なことが原因になっている場合はなおさら言いにくいと思うんですよ、あの年齢は。
しかも、僕自身すごく思っていたことで、僕が高校生ぐらいの時はSNSがなかったし、携帯はあったけど、写真は撮れないとか、やっと着メロができた、それぐらいのレベルです。でも今は、当たり前のように動画が撮れるスマホがあって、SNSやインターネットとかもある。そういう世代の人たちに、それを知らない、あたりまえじゃない僕らが、「それを止めなさい」とか言うのって僕は違うと思うんです。あって当たり前の世代の人たちにとっては、それがコミュニケーションの一つになっているから、写真って、今の人たちって何かメモする時に写真を撮ったりとか、コミュニケーションとったりする時に使ったりするわけじゃないですか。だから全然使い方が違うわけですよね。だから、違う世代の価値観で「駄目よ」というのは違うと思うんです。なおさら、親にはそういう相談ができない、わかってくれないというのはあると思うんです。愛情というものは難しいですよね。愛情かわからないですけど、結局何か追い詰められていく時に、何か一つでもつながれるものがあれば、そこまではいかないんじゃないかなと思うんです。「子宮に沈める」もそうですけど、全て社会からのつながりが断たれてああいう状態になっているわけですからね。どこかでそういうつながりが持てればとは思いますけど、でもそれは難しいなと、特に若い人たちにとっては

日本って昔から自殺が多いって言われているじゃないですか。年間三万人って言われていて、でも今3万人切ってて。それは勿論、いろんなサポート体制がとられたからなのかもしれない、東京では電車に飛び込めないように柵ができたりして、あれだけでもかなり何とかなっているとは思うんですけど。あと人口も減っているし。でも、若年層の自殺は高止まりしたままで、減ってないんですよ。なので、そこには今、社会の問題が凝縮しているんじゃないかなと思うんです。

―もし、一人でも瞳の味方をしてくれたら、ああいうことにならなかったんじゃないかと思いますが、敢えてその一人がいないままに終わらせる監督の意図を教えてください。
安易なハッピー・エンドにはしたくないというのはまずありますね。現実にそういう不幸が沢山ある中で、映画の中で例えばそういうヒーローが出てきて助けてくれると、そういう映画も一杯ありますけど、たぶん感動しちゃうじゃないですか。たぶん泣いちゃうと思うんですよね、‟よかったね”って。で、拍手して、映画終わって、いい話だったねって言って、ご飯食べ行こうか?っていう話になっちゃうじゃないですか?それじゃ駄目なんです。やっぱり現実に持ち帰ってもらいたいんで、そこで安易なハッピーエンドにはしない。
何か、、、答えを提示するんじゃなくて、僕は問いかけたい。お客さん・観た人に問いかけたいと思っているんで、‟何か考えましょう”と、そういう映画にしたいんで。
だから、あえてヒロキっていう彼氏の名前ですけど、彼には途中からずっと連絡がつかなくなるじゃないですか?で、その時に‟ヒーロー”って言わせているんですよね、わざと。だから、彼が彼女にとって‟ヒーロー”なんです。でも、結局彼は助けてくれなかった。だから、現実にはいないんですよ、そんなに都合よくヒーローは現れないです。だから、現実に自殺などが起きている、と僕は思っているんで。

(自殺は)ほんとに多いですよ。多すぎてニュース性がないんで。何か衝撃的なオプション的なものがないとニュース・バリューがないんで、テレビも取り上げてくれない。この映画だって、彼女の自殺が取り上げられたのは先生が捕まっていたからであり、彼女がSNSで人気者だったという設定だったから、あれだけ取り上げられた。例えば、瞳が普通のさえない男の子だったら、多分そんなにニュースになっていなかった。
最近の(自殺やイジメに関する)ニュースをすごく注意して見て欲しいんですけど、センセーショナルになっている話題に関しては、被害者の子がきれいだったり可愛かったりするんですよ。ビジュアルってかなり重要で、そっちの方がみんな興味をもってくれるからなんですよね。だからこの映画もそういう風に創りました。

―この作品は単に‟鑑賞した”だけで済ませることが出来ません。
いつも僕は映画をただ見せるだけにはしない。参加させるじゃないですけど、そのことは考えているんです。参加させるのも感情移入させるという参加のさせ方ではなくて、‟目撃した”とか‟見たくないものを見せる”とか‟傍観者にする”とか、見ることによって罪悪感、自分がここで何か出来たんじゃないかという無力感というものを、この映画だと社会的な悪があってその中に自分と同じようなものがそこにある、見つけてしまう。
この映画の中で映画館のシーンが二回ありますよね?映画っていうのは基本的に人の暴力や不幸などを商品として提供しているわけです。それを見て泣いたり、笑ったり、恐怖を感じたりして、みんなカタルシスを得たりしているわけです。そこに対するアンチテーゼ的なこともありますし、自分もそういうものを創っているということを自罰的にというか。
元々、この映画自体は『子宮に沈める』を撮ったことが経験にあります。『子宮に沈める』というのは、実際に起きた事件をもとにしている。二人の子供が亡くなっていて、文章を読むだけでも吐き気がしてくる。
けど、それを僕は映像にして、社会に善として創ったつもりですが、やっぱり世の中から見ると人の不幸を商売道具に使ったと見られているわけです。そういう側面があるのを僕も認識していますし、それでいいと思っているんですけど、でももう一つ、実際に起こった事件を僕はオリジナルの脚本にして世の中に出したわけですよね。だから、そこには僕の創作がかなり入っている。他の事件の要素もかなり入れ込んでいるんで、現実とかけ離れているし、現実はもっと悲惨だったと思う。だけど『子宮に沈める』を観て、あの事件はこうだったんだとか、確かに大変な内容だったけど、その事件の全てはここにあるんだと思った方が結構いて、それは僕の中で不本意なんですよね。僕はオリジナルの脚本としてフィクションとして世に出しているわけだし、ちゃんとそう謳っているわけですよね。でも、間違った情報を自分が流しちゃったんじゃないか?という風にずっと罪悪感があって、それがいわゆる今回のデマを流した着想というか、そこにつながっている。
自分自身が世の中にフェイクニュースを流してしまったかもしれない、人の不幸を商品にしちゃっている、というところがベースにあって、だからここ数年の事件報道を見ても純粋に批判ができないわけですよ。自分もそこ側の人間だったりするから。だから、あえて映画にしようと思って撮ったわけです。だから、映画館のシーンは特に重要で、映画館で見ている人たち、僕も観客として観ているとしたら、そこにこの映画の映像があった時に、観客にとって観客が見えているわけですよ。自分がそこにいると思って欲しいわけです。自分が人の不幸や暴力を消費しているって、常に。意識しないといけないなと。それって絶対に刷り込まれていくので。麻痺していくと思うんですね。

例えば、アダルトビデオもそう。アダルトビデオって男性が性欲を満たすために作られたもので、あれは演技ですよね。監督だっていますし、脚本だってありますよね。それを女優と男優が芝居をすることによって成立しているものですよね。リアルに見せているだけですよ。けど、みんなそれは作り物だってわかっているわけですよ。わかっていて見ているけど、じゃ、そこで行われている、例えば男性が女性に対して暴力的な襲い方をして、最終的には女性が気持ちよがっているストーリーって結構あるじゃないですか?それが当たり前っていうか、女性はイヤイヤ言うけど最終的には同意しているんじゃないの?とか思っちゃう。それって刷り込みになっちゃっていると思います。
あと、アダルトビデオができてから、インパクトやパフォーマンスのために入れている演技を、だんだん普通の人たちもするようになったと言われているんです。
だから、ヒロキという男の子は普通に何も考えずにAVコーナーに平気で入っていくニュアンスにしているんです。だからといって、AVを批判も否定もしないです。日本では性教育がないのに、未だにタブーとされているわけですよ。最近も、とある学校で性教育を教えたことが問題視されていましたけど、いつの時代の話?と思うのが未だにあって。でも、ネットの中を見れば当たり前のようにそういった道具がゴロゴロとあるわけじゃないですか。
その乖離というか、その状況で、性教育はまだ早いとか言っていると、どんどんそっちの方の情報ばっかりが入ってきて、間違ったSEXとうものが出てくるわけですよ。そういうことによって、傷つくのは女性なんですよね。ビデオでねつ造されたパフォーマンスを、みんな当たり前と思って真似することによって女性が傷ついたりしているわけだから、避妊とかもそうですよね。それは、僕自身も今までそういう風に経験してきて、自分だって考えてみたら「ああ、女性を傷つけてきたんじゃないかな」と思う。だから、そういうのを映画に入れてみたんです。
視聴者の人たちで言えば、誰かを批判する、例えばメディアとかを批判しますよね、僕だって批判されたりするんですけど。でも、それを一番消費しているのは‟視聴者のあなた達だよ”と僕は思います。自分は安全なところで、自分は善という立場から物申すって多いじゃないですか。自分のことを顧みてないというか。だから、僕はそうはなりたくなかったんですよ。僕がこの映画を創る中で、‟僕は大丈夫だよ”‟善だよって”ところから描いたって、上から目線の偉そうな傲慢な映画になっちゃうと思っていて。だからラストのあのオチというか、こういう感じにしたのは自己批判を含めているんです。

―インターネットやSNSによる不特定多数の人とのコミュニケーションについて監督はどのように思われているんですか?
ネット社会の良いところも悪いところもあるから、一概に悪いと思ってなくて、いい面沢山あるじゃないですか。全く知らない人とつながるのは危険なこともあるけど、それで今まで出会えない人と出会ったりできるし、いろんな国の人とつながれるかもしれない。まあ、例えばコミュニケーションだけじゃなくて、いろんな世界中のムーブメント、#Me Too、あれはインターネット、SNSがあったことによって拡がったわけだし、アラブの春だってそう。
ただ、片やそれと同じように悪用する人たちがいて、例えばイスラム国のリクルートだって全部YouTube等を使って世界中から勧誘しているわけじゃないですか。要は‟使い方”なんですよねリテラシーというか、どっちにもなるよということは必ず教えた方がいいし、インタ-ネットやSNSの世界だけじゃなくて、カメラだってそう。カメラだって人を傷つけることはできるわけですよ。でもいい面もある。だから両方教えていかなくてはいけない。規制は絶対意味がなくて、規制をするってことは必ず隠れてしまう。見せないようにしちゃう。大人が分からないまま‟それやっちゃ駄目”となると、隠れてするようになるわけ。
イジメだってそう。イジメは駄目だってみんな分かっているわけです。けどそれを、イジメが駄目といいすぎると、結局隠れてやっちゃうじゃないですか。日本のイジメの教育って駄目だと思っていて、例えばオランダとかが先進的な教育をしているんですけど、イジメはあって当たり前、子供たちの間で。だから‟イジメが起きた時にどうするのか?ということをみんなで話し合いましょう”という考え方なんですよね。
日本って、イジメが駄目、イジメた人を誰だ?って見つけようと結構犯人捜しして、で犯人罰して終わりってなるじゃないですか。じゃなくて、話し合って、じゃ、何で起こったのかっていうのを探っていかなければ何も解決にならないし、結局そこが宙ぶらりんになったまま大人になるから社会でもイジメがあるわけじゃないですか。親というか、大人が駄目と言っているのに社会でリンチが平気で普通に行われているじゃないですか、TVの中で。
例えば、誰か、スキャンダルがありました、不倫をしましたというと、社会的なイジメが起きますよね。正直、視聴者には関係ないし、誰かに迷惑が掛かっているというわけではなくて、それを子供たちが見て、イジメが駄目と言われて説得力あるか?と言われても‟ない”ですよね。そういうのが沢山あって、さっき言ったSNSも使い方なんですけど、もちろん危険なところもあるんですけど、じゃ、親が教育するってなかなか難しいんですよ。親、家族の形が多様じゃないですか。ほんと一人親だって普通にありますし、そういう中で親がちゃんと教えられるかというと中々難しい。じゃあ、何処がするべきかというと、僕は、小学校とかからそういうのを学校でやっていくべきだと思うんですよね。それは性教育を含めてなんですけど。
で、教え方も先生から一方的に発信するんではなくて。それは、今回この映画の中で言いたかったことの結構重要な一つにもなっていて、日本の教育に対して批判的な目線があるからこそ、映画のファーストシーンもああいう形にしているんですけれど、(授業のシーンでいくつかあるシーンの中で)、基本的には先生が一方的に生徒に話しているんですよ。
例えば、英語の授業だったら先生が言っていることを復唱する、やっぱり日本って教育は暗記が多いですよね。ああいうのって、僕はあまり意味がないと思うんですよ。ああいうことが行われていて、なんかそういう、先生が一方的に伝えて生徒がそれをするみたいな、そういうのがすごく多いなと思っていて。そうじゃなくてディスカッションというか、先生と生徒が同じポジションで話し合うというのが一番理想だと思っていて、そういうのを批判的に入れたいというのと。あと、ファーストシーンで先生が制服とかに結構強かったじゃないですか。ネックレス外しなさい、ズボン上げなさい、そういうところに厳しくて。
あと、日本って制服があってそれを守らなければならないじゃないですか。それっていい面もあるんですよ。みんな同じ制服を着て、集団として行動をしてなんか規律があって。けど、何であるかって、僕は管理し易いからあると思っていて、元々制服とかユニフォームって軍隊からきているものだと思っていて、そういう風に規律があることによって、みんな言うことを聞きやすい、管理しやすい。だから、世界的にも日本って制服が多いわけですよ、就職してもやっぱり制服がある。海外ってそんなになくて、結構私服が多い。だからそれは日本の特徴だなと思うし、だからはみ出る人が目立つ。例えば、ちょっと昔にコギャルという人たちがいて、あの人たちは個性を重視するとか言っているけど、あの人たちも個性個性と言っていて、みんな同じじゃないですか?だから、日本の個性ってほんと個性ないなと思っていて、個性って言っている人がみんな似たような個性になっている。みんな茶髪にするならみんなする。本当の日本の自由というか、そういう表現もないんじゃないかなと思っています。
僕自身も高校には行っていないから、中卒なんですよ。ずっと学校教育って受けてないから、行っていないからこそ見えるというか、あると思うんです。あんまり僕は協調性がないので(笑)。

―学校は義務教育を終えたら、勉強以外を教えなくていいのでしょうか?
本来は勉強を教えるだけの場所ではない。やっぱり、いろんな人がいて、自分で人間関係を作っていくとか、むしろそっちの方が重要だったりするじゃないですか。なので、一つ社会に出るため、その前の小さな社会ですから。そういった、もっと多様な学校を目指した方がいいと思います。日本ってほとんど日本人しかいないじゃないですか。例えば障がいがある人がいたっていいわけじゃないですか、それを別々にするんじゃなくて。だって、社会に出たら普通に障がい者の方っているんですよ。でも、それまでずっと隔離されていて、急に社会で出会った時にどう接したらよいかわからないじゃないですか。それが小さい時から近くにいたら全然違いますよ。僕だってどう接していいかわからないから、声を掛けきれなかったり、必要な時に手を差し伸べられなかったりするわけですよね。でも、やっぱり普通に生きているし、考えていることは一緒なのに、何かそこで隔離されているから、別の世界の人みたいな感じになって。何か困っているかもしれないけど、迷惑かもしれないと思っちゃうじゃないですか。これって日本の良くないところですよね。
小さい時から、そういう人たち、例えば違う宗教の人たちがいるようなところに居たりすると、全然違ってくると思います。そういうのを僕はもっとやっていかなくてはいけないんじゃないかなと思うんですよ。だから、学校はもちろん勉強は教えなくてはいけないと思うんですけど、勉強って自分でできますから、人との付き合い方を大切にした方が全然いいとは思います。だって、結局暗記しているだけでしょ?卒業したら忘れているんですから、意味ないなと思いますよ。

―自殺者を防ぐためには、悩みを抱えている子供たちに気づくべきなのでしょうか?
気付くって難しいじゃないですか?自分が生きることでも精一杯なのに、いろんな人に目を向けるって難しいと思うんです。僕は無理だと思っているんです。でも、自分の身近な人だけでもいいと思うんです。例えば、家族、兄弟、近所の人達、あと友達ぐらい、その人たちがなんか辛そうだったら気に掛けるとか、何かあったら協力するとか。だって世界の人たちは誰かしらとつながっているわけで、完全に独りぼっちの人ってそうそういない。内戦があってそういう状況の人はいても、あんまりいない。
誰かしらとはつながっているじゃないですか。みんなそれを、身近な人たちだけでもそういう風になれば、世界は平和になるんじゃないかなと思います。そう簡単ではないと思いますが、ほんのちょっとの気付きとかで変わるんじゃないかなと思います。
でも、日本って理想論になり過ぎて、理想ばかり掲げてそれだけが大きくなって、結局できないから。もっと現実的に考えて、例えば、子供がうるさいから保育園は造れないとか、公共の場に子供を連れていくことを嫌がるとかいう人って結構いるじゃないですか。でも、結構言われるのが、‟子供はうるさくない”ということ。僕はうるさいと思うんです。正直、イラっとするし、うるさいというのは事実。うるさいのにうるさくないよね、ということに無理があると思う。
だって、自分の子供は別かもしれないけど、いや自分の子供だってうるさいかもしれない。うるさくてもいいじゃん、許そうよって感じにならないと変わらないと思う。

―‟うるさい”と思う自分に気付くことが大切なんですね?
自分の‟悪”って中々認めたくないじゃないですか。自分は必ず善という側にいて、誰か間違ったことをすればそれを罰するという、批判するという構図は日本には沢山あって、たぶん世界にもいっぱいあって。でも、まず自分を見ようというのがあった時に、この映画がその鏡になればいいなと思ったんです。

―改めて、瞳の中の‟邪悪さ”とは何でしょう?
彼女はたまたま被害者になっただけであって、彼女は率先して先生が連れていかれる動画を撮っていた。一番率先していた。それを家に帰って、妹に「今日先生捕まったんだよ」って言っていたのは彼女ですよね。彼女は決してピュアな被害者ではないわけですよ。彼女はたまたま被害者になっただけであって、(瞳以外の)誰かがデマを流されていたら、彼女(瞳)だってそれに加担していたはずです、絶対。

黒味(真っ黒な場面)が入っているシーンが2回入ります。1ヶ所はエスカレーターを女子高校生4人組が上がっていくところです。流れが壊れるので意味がないので絶対にそんなところには普通黒味は入れないんです。この映画って40-50代の男性をターゲットに元々創ろうと思って創ったんですが、日本って女子高校生が性的に商品として消費されていると思っているんです。それを僕ぐらいから上の世代が消費しているなと感じていたので、だからとりあえず、ミニスカートをはいた女の子たちがエスカレーターを上って行った時に、彼女たちの足元を見ちゃう自分がいるわけですよ。そういうのを見ていた時に黒味が入ると、ちょっと意識するじゃないですか。
あと、瞳が背中を向けて泣いているシーンがあるじゃないですか。肩が見えてああいうところも見ちゃうんですよね。薄暗いからギューッとみちゃうけど、そこに黒味が入ることによってちょっと意識させるとか。ラストのところで彼女の性的な動画がアップされていて、パソコン画面が映っているところがあるじゃないですか、そのパソコン画面をよく見ると人が写っているんですよ。自分がそういうサイトを見ているときに、一瞬黒い画面になった時に自分が写っていることがあるんですよ。そういう効果を狙いました。

―映画ファン・映画ログ会員へのメッセージ
面白おかしい、例えばコメディや感動できる映画もいいと思うんですよ。僕はそれを否定するつもりもないですし、そういう映画もありだと思いますし、そういう映画を僕も観ます。ただそういう映画ばかりが日本ではもてはやされているな、と思うんです。で、もちろん現実逃避としての、娯楽としての映画ももちろん大事なんですけど、でも社会を見つめるための映画や、自分を見つめ直す映画もあっていいんじゃないかなと思います。
この映画って、社会的なことを描いたまじめな側面もあるんですけど、映画としても十分楽しめる構造には創ったつもりです。だから、いろんな見方ができるので、とりあえず見て欲しいです。
感動するって感情を動かすって書くわけじゃないですか。で、それは笑ったり、感動するということだけじゃなくて、嫌になったり嫌悪感をもよおすとか、そういうことでも感情は動いていて、僕は立派な感動だと思っています。ベクトルは違っても感動を体験するという意味では、多分十分そういう映画になっていると思うんで、そういう楽しみ方もいいんじゃないかなと思いますので、是非観て欲しいです!!


<編集部より>
「これは問題作だ」と言われる作品は多々ありますが、何がどう問題作なのか?映画を観終わると忘れてしまうものが多々あります。でも、緒方監督の作品は忘れさせてはくれません。「鑑賞」なんて生易しいものではなく、上映時間内に「経験」させられてしまうから。しかも、自分がまぎれもなく事件に身に覚えがある一人として。
私たち人間にとって‟悪”とは何なのか?その存在は明白で、それは自身に潜んでいるという真実に、一度は打ちのめされ、まる裸にされる必要があるのでしょう。この点で、緒方監督の作品は徹底しています。
‟映画の役割”という点でも考えさせられる作品。既に海外での反響が大きく、今後の緒方監督の活躍を楽しみにしています!!

■緒方貴臣監督プロフィール
1981年福岡市生まれ。
高校中退後に起業し、25歳で退社するまで共同経営者として会社を運営する。海外放浪の後、映画の道に進むために上京。映画学校へ行くが、3カ月で辞め、2009年より独学で映画製作を始め、初監督作品『終わらない青』(11年)が沖縄映画祭で準グランプリを受賞し、劇場公開される。続く『体温』(13年)では、2年連続ゆうばり国際映画祭コンペ部門に選出され、国内外7つの映画祭で正式招待。前作『子宮に沈める』(13年)は、大阪2児放置死事件を基に制作され、児童虐待のない社会を目指す「オレンジリボン運動」の推薦映画となる。その他、病院や大学など全国各地で行政や市民による自主上映会も開催。社会問題を独自の視点と洞察力で鋭く切り取り、作品を通して世の中への問題提起を続けている。本作『飢えたライオン』で4作目となる。現在、次回作を準備中。

■予告動画


【スタッフ】
監督・脚本・プロデューサー 緒方貴臣
撮影監督 根岸憲一
共同プロデューサー 小野川浩幸

【キャスト】
松林うらら
水石亜飛夢
筒井真理子
菅井知美
日高七海
加藤才紀子
品田誠
上原実矩
菅原大吉
小木戸利光
竹中直人

■関連ニュース
第30回東京国際映画祭『飢えたライオン』

■ 配給
キャットパワー

■ コピーライト
©2017 The Hungry Lion.All Rights Reserved

■公開情報
9.15(土)より、テアトル新宿にてレイトショー!
10.13(土)より、シネ・リーブル梅田にて公開
以降全国順次公開予定

■ 公式ホームページ
http://hungrylion.paranoidkitchen.com/

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