映画『空の瞳とカタツムリ』~演技を超越し、登場人物のリアルが突き刺さる!~斎藤久志監督インタビュー

空の瞳とカタツムリ 斎藤監督

演技を超越し、登場人物のリアルが突き刺さる!!
『空の瞳とカタツムリ』
斎藤久志監督インタビュー

求めあうがゆえに傷つけあうしかなかった男女四人。触ろうとすればするりと逃げる儚い青春の終わりを繊細なタッチで叙情的に描きだす、新しい愛の物語『空の瞳とカタツムリ』。この度斎藤監督には、どのような想いを込めて制作されたのか、また「十百子と夢鹿がそこにいた」と撮影時の感想を語っていただいた中神円さん(「中神円さんインタビュー」はこちら)をはじめキャスト陣とどのように向き合ってこられたのか、たっぷりとお話をうかがいました!

芝居は生もの、自分の想像を超えて欲しい

―― 中神円(なかがみえん)さんは本作で“自分でも知らなかった自分を出すことが出来てとても勉強になった”とおっしゃっていました。演じさせるというより、自然な反応を引き出している監督の狙いを教えてください。

斎藤久志監督
脚本に書かれた登場人物と演じる俳優の間に役があると思うんですよ。役になりきるとか、役作りとか言いますけど、写っているものはその人ですよね。その人の存在、姿形を使ってしか役は作れない。だったらその人を魅力的に見せる事が大事だと思っているんです。勿論脚本には台詞もあってト書きもあるから自由に喋って、自由に動いている訳ではないので、その人自身ではない。全て決められた段取りの中にいる。だけどもそうだからこそ、感情は自由になれるんじゃなかって思うんです。日常の中に生きていて、相手に対して「死ね」って思ってもそう簡単には言えないですよね。でも台詞にあったら言わなければならない。言う事で、日常でコントロールしている感情をフリーにできる。それが俳優をやることの面白さじゃないんですかね。ドラマって嘘を作っている訳ですよ。だからこそそこに写っている感情は本物であって欲しいって考えているんです。ここでこの役がこうゆう気持ちになって欲しいという事は一切指示してなくて、演じる人が結果なった感情が一番良いと思ってるんです。勿論、脚本があっての事なので、流れはそこにある訳ですよ。ただ俳優があらかじめ用意して来た頭で考えたお芝居をはぎ取る作業をしているんです。ブルース・リーですよ。「don’t think.feel」で(笑)。
空の瞳とカタツムリ 斎藤監督

―― 確かに、画家も二度と同じようなものが描けない“その瞬間”を大事にするということをよく耳にします。本作品自体もそうですが、キャスト・俳優がそこで光るようにと?

斎藤久志監督
そうですね。僕は映画の芝居は1回しかできないことをフィルムに定着することがベストだと思っているんですよ。舞台の場合は何公演もあって毎日繰り返す訳ですよね。俳優にとって毎日でもお客さんにとっては初めてで、毎回出来に極端な差があってはまずい。だからある一定の芝居のラインを保つ必要がある。そうなると毎回80点の芝居はしなければならない。100点を目指すと、時には50点に落ちることもあると思うんです。ところが映画は瞬間が映ればいい訳ですよ。だから100点を目指す。50点はNGにすればいいのですから。そこを目指した時に偶然も含めて120点になったり150点になったりすることもあり得る。芝居は生ものですから何が起きるか分からない。自分の想像を超えて欲しいってどこかで思っています。

―― ところで、相米監督の教えというのは、そういったエッセンスが中心にあったのでしょうか?

斎藤久志監督
僕が、PFFに入選した時の審査員をしていた中に長谷川和彦さん(映画監督『青春の殺人者』『太陽を盗んだ男』)がいらして、長谷川さんに「俺の助監督やらないか?」と誘われて長谷川組の脚本作りに参加したんです。結果、長谷川さんはその後映画を撮ってないので僕は助監督をしてないんですが、僕の師匠は長谷川和彦さんなんです。相米さんは、長谷川さんの助監督だった方なので、言ってみれば兄弟子って事になるのかもしれませんが(笑)、僕は、相米さんをお見かけした事はありますが、喋った事もないです。宣伝にある「弟子筋」っていうのは嘘ではないのかもしれませんが、ちょっとおこがましいですね。申し訳ないです。

※本作のタイトル『空の瞳とカタツムリ』は故・相米慎二監督の遺作『風花』のタイトル変更案として最終候補まで残ったもの。

―― そういうことだったのですね。改めて、本作のタイトルについてなのですが、人間を俯瞰しているイメージとして“空の瞳”を、雌雄同体(ノンセクシャル)としての“カタツムリ”という意味で受け止めてみました。

斎藤久志監督
なるほど。そうゆう事なんですね(笑)。この作品の成立が初めにタイトルありきだったんですよ。そのタイトルをお題に、二人の女の子の恋愛ドラマというプロデューサーの発注で脚本の荒井美早さんが作ったオリジナルストーリーなんで。もしかしたらそうゆう事かもしれませんね。

制作に込めた想い

――作品にピッタリで素敵なタイトルだと思います。
ストーリーについてお聞きしたいのですが、主人公らにとって直球のテーマ“ノンセクシャル”については、それを意識したことのない者ですら胸に迫りくるものを感じます。問題意識は持っていても、その感じるところを言葉にできません。これをどう表現したらいいのか、監督が作品に込めた想いなどから語っていただけないでしょうか?

斎藤久志監督
難しい問いですよね。でもシンプルに考えれば人と人が出会って、相手を許容したり、拒否したりするって事は、別に肉体的性別とかセクシャリティとはあまり関係ないだろうと思うんですよね。

二人の女の子がお互いを好きである。それが性的意味あいなのかそうでないかはまだ分からない。性的な関係になると世間から見たらレズビアンというカテゴリーに属する訳なんですが、この女の子二人の間に潔癖症という設定を挟んで、触る触れないって問題は、中・高生ぐらいの時に、誰しもが自分の心と身体、つまり欲望を抱いてしまう自分とその人を好きである自分っていうことの中で、悩んだり苦しんだりすることっていうのは普通にあることだと思うので。その延長線上でこの物語を考えていったということです。
空の瞳とカタツムリ 斎藤監督
勿論、LGBT問題の映画なんだって思ってもらってもいいし、実際そういう設定ではあるので。ただ、LGBTの人たちのリアルみたいなことを伝えていくってなると、あるピンポイントでしか伝わらない映画になると思うんで、普遍的な青春前期の悩みとして捉えようとはしました。勿論単にその事をネタにしているだけだとその事を抱えて生きている人たちを傷つけることにもなりかねないので、そこは最新の注意をはらったつもりですが。僕の劇場監督デビュー作『フレンチドレッシング』はゲイの男の子が主人公です。もっと遡ると富士本由紀さんの『包帯をまいたイブ』というレズバーを舞台にした小説を映画化しようとしてクランクイン直前に流れたこともあるんです。本当だったらそれがデビュー作になるはずでした。その時はかなり勉強しました。

「誰とでも寝る。でも一度寝た男とは二度寝ない」と言う夢鹿。夢鹿しか触れることができないと思っている潔癖症の十百子。この相反する二人は、もしかしたら同一人物なのかもしれない。物語の最後の方で十百子が小説を書きあげ、プリンターからは映画と同じタイトルが出る。もしかしたら夢鹿は十百子の小説の中にしかいなかったかもしれない。ただ、結果その後も夢鹿を出していますので、そういうことでもない。どこかで表裏一体になっていて、二人の関係が壊れた後、十百子は「誰とでも寝る女になるかもしれない」と言い、小説を書きあげている。一方の夢鹿は、今まで作り上げてきたコラージュを燃やして憎んでいた母のいる実家に帰るという、それぞれ今まで生きて来たルールみたいなことの逆のベクトルをとる。十百子が夢鹿のことを「双子のかたわれを見つけたと思った」と言っていているように、それぞれがもう一人の自分に問いかけているとようにも見える。誰の心にも夢鹿的な心と十百子的な心が共存しているんじゃなでしょうかね。それが別々の肉体を持ってしまった物語なんじゃないでしょうか。

彼女たちは夢鹿、十百子を生きていた

――肌感覚で伝わってくるものが沢山ありました。夢鹿が十百子のコラージュの上で泣いているシーンでは、実際に縄田さんと中神さんのお二人が撮影の合間に二人感極まって抱き合って涙を流したという話もお聞きしました。

斎藤久志監督
そのシーンを撮る時に、他のシーンを撮る為に中神さんも控え室にいたので、「ちょっと、中神呼んで!」って。「ちょっと二人で抱き合って」「手を握ってくれ」って。そこからパッと二人を離してカメラを回しているんです。本番、中神さんはカメラ横でそのシーンを見ている。縄田さんは中神さんが見ていることを知っている。その結果があの号泣なんです。脚本は「膝を抱えて丸くなり、目を閉じる」です。どうなるかなんて予想していないんですよ。10日前後の短い撮影ではありますが、その期間彼女たちは夢鹿、十百子を生きていたと信じたいんです。だったらそこに何かが生まれるんじゃないかって思ったてやった事なんですよね。

もうひとつ夢鹿が泣くシーンがあります。公園での二人の決別のシーンですが、本番中、突風が吹いたんですよ。それも偶然あのタイミングで。当然、リハーサルを何十回も重ねていって、芝居を固めっている。それで本番になる。すると予想もしなかった風が吹いてきた。そこまで作っていた“芝居”がその瞬間壊れる。それでも彼女たちは芝居を止めなかった。その時に夢鹿が泣くんですね。これも脚本には書いてない。夢鹿は人前では泣かない子だと思っていたのでどうしよかと迷ったけどOKにしたんです。その瞬間の二人の感情がリアルだと思ったからなんです。ちょっと意地悪な言い方をすると涙って僕は信用してないとこあるんですよ。目薬ではなく、涙を零すってある種の力はあるとは思うんですけど、日常生活の中でも相手がいて泣くってアピールの要素がかなりありますよね。ましてやカメラの前で泣くっていうのは俳優の達成感も含めて嘘っぽいって思うんです。泣く方向にかりたてているのが見えると引いちゃう。しかしあの涙は、かりたてているようには見えなかった。本当のところは分かりません。そう見えたと勘違いしただけかもしれない。でも僕には、そこに夢鹿と十百子がいるように見えたんです。
夢鹿,十百子,画像
脚本にやるべき事と言うべき事は書いてある訳ですよ。そこでの僕の仕事は登場人物たちがそこに本当にいるように見せる事だと思うんですよね。言葉に肉体を持たせると言うか。これってフィクションであると同時に撮影期間、夢鹿と十百子を生きていた、縄田かのんと中神円という女の子たちのドキュメントでもあるって思っています。だからこの映画は、彼女たちが感じ取ったものを掬い取っていくみたいなことで、できているのかなって思います。

先立の巨匠たち、小津、黒澤、溝口、成瀬といった人たちは自分の頭の中のイメージを具現化すれば傑作になったのかもしれませんが、そんな才能は僕にはない。それでも映画を作りたいと思ってしまった。映画って特出したひとりの才能で出来てるだけではない側面もあって、スタッフやキャストとの出会いで化学変化を起こして面白いものになることもあるんですね。そんなことがあるから僕なんかでも映画を作っていられる。だから自分のイメージにあてはめていくんではなく、自分の考えてた以上の事を発見することが僕の映画作りなのかもしれません。

キャスティングの経緯

―― 縄田さん、中神さんの演技はもちろん、三浦さんも藤原さんと、体当たりのすごい演技でした。キャスティングの経緯について教えてください。

斎藤久志監督
アクターズ・ヴィジョンがやっているワークショップで、本作企画の荒井晴彦さんが講師した時に、そこに参加していた人たちなんですよ。
最初は荒井さんがご自身の脚本をテキストとして使っていて、それを映画にしようとなって僕に声がかかったんです。その段階でまず、縄田かのんさんが先に決まりました。ところがその脚本の原作権が取れないってことになって、一度流れたんですね。それから先ほど言った相米さんのタイトルを使ってオリジナル脚本を作ることになり、脚本が出来上がってから相手役としてそのワークショップのリストから、“こういう映画なんで裸にならなきゃいけない。それができること”を条件でオーディションをしたんです。その中から書類で2~30人を選び、実際に会った中に中神さんがいたんです。同じように、藤原隆介さんもそのワークショップに参加していて、オーディションをして選びました。三浦貴大さんに関しては、プロデューサー案件ですね。だから、僕がお願いしたのは、利重剛さんとクノ真季子さんだけです。あと宇田川幸洋さん。

―― 利重さんは監督業もされていらっしゃいますが、元々お知り合いなんですか?

斎藤久志監督
そうですね。同じように自主映画からスタートしているんで、ずっと前から知り合いではあったんですけど、一緒に何かをやったことは一度もなかったんです。接点は微妙にあったりするんですよ。僕がPFFに入選した『うしろあたま』の撮影をやってくれた寺田祐之が利重と高校の同級生だったり、僕の映画に何本も出てくれている鈴木卓爾が利重の『クロエ』に出てたり、録音の小川武さんが、『さよならドビュッシー』の現場終了と同時に僕の『なにもこわいことはない』の現場に来てくれたり。

―― 利重さんは、内面・心が見えない演技が非常にお上手ですよね。

斎藤久志監督
利重のシーンは、高崎にある電気館という今は映画祭とかイベントでしかつか使われなくなった映画館で、1日で全部を撮っているので、かなり大変でした。朝の10時から夜中の1時か2時ぐらいまでぶっ続けで撮り続けるみたいな日だったんですけど、本人監督ですのでこっちが何をやりたいかっていうのをすぐ理解してくれて。縄田さん、中神さんへのアドバイスも含めて、利重がいなかったらできなかったかもしれないですね。ほんとに助かりました。

精神の問題を描いているからこそ、物理の裸は力を持つ

――本作は非常に深いテーマが描かれていて、激しい濡れ場がなくても十分に伝わるものがあると感じました。そこで、映画であえて裸を見せる意味を教えていただけないでしょうか。

斎藤久志監督
この物語を語る時に肉体である裸は必要だったとは思っています。描いているのは精神の問題であればこそ、映画の持つ特性上、物理の裸は力を持つとは思います。心で何を思おうが、精神的な問題を抱えようが、自分の女である肉体からは逃れられない。例えば夢鹿がヌードデッサンモデルをしている裸とか、十百子が家に帰って風呂に入る裸とか、エロチックじゃないですよね。むしろ哀しい気がする。その哀しさと闘う二人の女の子の話でもあると思っています。それは映画じゃなきゃ出来ないことなんじゃないでしょうか。
空の瞳とカタツムリ 斎藤監督
しかし一方で、ここ何本か撮っている映画に裸が出てくるんですが、日本の芸能界で女優さんが脱ぐっていうのはかなりリスキーじゃないですか。コマーシャルの問題とか色んなことっていうのが。それをこちらが引き受けないといけない。その覚悟を常に問われるわけですよ。だから、しばらくは裸がある映画はやりたくないな、という思いもあります(笑)。

裸ってインパクトありますよね。変ないい方をすると、僕はおっぱい出てくるだけでちょっと思考停止する時があるんですよ。「あ、脱いだ」って。だからといってそういうシーンがあるのに無理矢理見えないように撮っているのも同じように思考停止になる。ただ、裸が時として物語の進行を邪魔している可能性もあるんじゃないかって思うんですよね。本来はそこでの登場人物の感情を感じて欲しいのに観客は、裸に目がいってしまう。ポルノはそれを目的にしているからまた別の話にはなるんですけど、いったいどれぐらいの人が映画で裸を見たいという需要があるのか分からないし、段々時代がそうじゃなくなって裸じゃ商売にならなくなっている面もあるんじゃいでしょうかね。かつては裸があることで低予算の映画が成立していた時代がありましたけど。裸を見たいなら映画館に行かなくてもアダルトビデオがあるし、今やインターネットとかでタダでいくらでも見られるわけじゃないですか、そういうことでピンク映画が衰退していく、しかしピンク映画はその事を逆手に取って独自の文化を築いてきたわけですが、それも徐々になくなりつつある。

お金を出す側は無名の俳優で映画を成立させるときに裸って担保になるって考えがまだあるんだとは思うです。だからこうゆう映画が成立する。でも作っている側はそれだけの映画と思っては作ってはいない訳ですよ。だから、いわゆる絡みのシーンって(カットを)割っていないんですよ。それは、芝居の流れの中でその行為を見せたかったんで、おっぱいや体のラインを見せるということよりも、感情が動いていくということで、絡みになっていくという事。まあ脚本がそうゆう流れなのであたりまえなんですが、撮る側もことさら絡みを特殊なシーンとして捉えないようにはしていました。ただこの映画に関して言えば、先ほど言われた「激しい濡れ場」は脚本の狙いも含めて必要だったと思います。性の営みは個人的なものでポルノグラフィティー以外に必要ないって考えもあるとは思いますが、それを客観的に見せる事で美しく見えたり、愚かに見えたり、哀しく見えたり、観客によって見え方は違っていいと思うのですが、この映画の登場人物たちの言葉に出来ない想いの伝え方がセックスでしかなかったと思うんです。

ただ悲しいかな最終的にその事を引き受けるのは出てくれた女優さんになる訳で、これがきっかけで次から次に裸の映画が続くとちょっと嫌だなって思いがあるんですよね。映画の中身とは別に、出演してくれた彼女たちがこのことが痛手にならずに俳優として成功してくれることが、この映画ができたもうひとつの意味になると思うので、「脱いだ、凄い」ってだけに目を向けるんじゃなくて彼女たちの芝居を見て欲しいですね。

映画ファンにメッセージ!

―― ありがとうございました。最後に映画ファンにメッセージをお願いします。

斎藤久志監督
誰もがどこかで通る、あるいは通ったことのあるステップというか、青春映画の一つだと思いますので、難解な映画だと思わずに観ていただければいいなと思います。

編集部より

青春、セクシュアリティ、SEXといった人間の匂いがする舞台で、生々しくそして繊細な感情のうねりが大きく渦巻いています。その迫力とリアリティを支えるキャスト陣のむき出しの感情に、観ている側は想像を掻き立てられ、意識をさらわれ、いつのまにか自分のセクシュアリティを忘れている。
こだわりや思い込みで自縄自縛に陥るのが人間の平凡な姿であるならば、想像を超えた先にあるものが何なのか斎藤監督に教えていただいたような気がします!キャストの方々、そして斎藤監督の益々のご活躍を期待しています!!

斎藤久志監督

1959年生まれ。85年、PFFに「うしろあたま」が入選。スカラシップを獲得し「はいかぶり姫物語」を監督すると同時に、審査員だった長谷川和彦氏に師事する。92年テレビ「最期のドライブ」(監督:長崎俊一)で脚本家デビュー。97年「フレンチドレッシング」(原作・やまだないと)で劇場監督デビュー。

■主な脚本作品

1992年映画「湾岸バッド・ボーイ・ブルー」(監督:冨岡忠文)
1994年映画「夢魔」(監督:廣木隆一)
1995年「ドトウの笹口組」(監督:金田敬)
1996年映画「MIDORI」(監督:廣木隆一、共同脚本:小川智子)
1996年「尻を撫でまわしつづけた男・痴漢日記3」(監督:冨岡忠文)
1999年映画「カオス」(監督:中田秀夫)
2001年テレビ「学校の怪談・俺たちの文化祭」(監督:緒方明)
2006年映画「M」(監督:廣木隆一)
2006年「機械仕掛けのレースクイーン」(監督:安藤尋、共同脚本:伊藤裕満)

■主な監督作品

1993年「はじめての夏」
1995年「夏の思い出」
2000年映画「サンデイドライブ」
2000年舞台「お迎え準備」(サードステージ・プロデュース)作・演出
2002年映画「いたいふたり」
2006年映画「『愛妻日記』よりホワイトルーム」
2013年映画「なにもこわいことはない」
2016年舞台「dishes」(激嬢ユニットバス公演)演出

■予告動画

■ストーリー
祖母の残した古いアトリエでコラージュ作品を作りつづける岡崎(縄田かのん)は、消えない虚無感を埋めるため、男となら誰とでも寝る生活を送っていた。

一方、夢鹿の美大時代の友人である高野(中神円)は極度の潔癖症。
性を拒絶し、夢鹿にしか触れられない。そして二人の友人、吉田(三浦貴大)は、夢鹿への想いを捨てきれないまま堅実に生きようと努めていた。学生時代、とても仲の良かった三人。しかし月日が経つにつれ、少しずつバランスは崩れていった。
そんな中、十百子は夢鹿に紹介されたピンク映画館でアルバイトを始めるが、行動療法のような日々に鬱屈していく。その映画館に出入りする青年、大友(藤原隆介)は、満たされなさを抱える十百子に心惹かれていくが……。
夢鹿と十百子、永すぎたモラトリアムは終わろうとしていた。

■キャスト
縄田 かのん
中神 円
三浦 貴大
藤原 隆介
利重 剛
内田 春菊
クノ 真季子
柄本 明

■スタッフ
監督:斎藤久志
脚本:荒井美早
企画:荒井晴彦

■公開情報
2019年2月23日(土)池袋シネマ・ロサほか全国順次公開

■公式サイト
http://www.sorahito.net/

■コピーライト
(c)そらひとフィルムパートナーズ




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